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 「言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか」を読む。

言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)

言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)

  • 作者:塙 宣之
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/08/09
  • メディア: 新書
 

 最近、お笑いについて考える時間が多い。年末、M-1でミルクボーイという漫才師がほとんど全国的に無名の状態からいきなり最上最高得点で優勝したという話をなんとなく聞いたり、その舞台裏のドキュメンタリーを見てめっちゃ感動してしまったりしていた。本書の存在も知っていていつか読みたいなと思っていたのだが、正しく関東芸人が優勝したといういいタイミングで読めた気がする。とにかく金言が目白押しで、お笑い論以外でも舞台に立つ人や表現・創作する人に響く内容となっている。

あまり今でも漫才という芸能に積極的な興味がある訳でなく、どちらかというと「なぜこのような芸能が日本で最もお笑いの形としてスタンダードになり得るのか」という点の方が興味があるのだが、そういう問いに対しても部分的に回答をくれるような面白い内容となっている。M-1という競技が出来たことのお笑いシーンにおける意味や、競技で評価されるポイントがどのような点かみたいな。

以下、痺れたフレーズ。

・「漫才はお互いを輝かることが理想」とか「ボケで笑ってツッコミでも笑う形が理想」

ダルビッシュは変化球を試すとき、試合で試すらしい。それが一番いい「練習になる」のだそう。だから、漫才のネタも観客がいない環境で練習しまくってもあまり意味がないという考え。練習し過ぎると嘘くささが出てしまう。だから、漫才中も予定にないセリフを入れたりして、緊張感を持ってやっている。

・ネタ中に思わず演者が笑ってしまうというのを「誘い笑い」といい、年配の先輩ほどそれを嫌う。あざとさが出てしまう。

M-1は関東的な弱い言葉よりも怒りを基にした関西的な強い言葉の方がインパクトが残りやすく、勝ちやすい。ウケ量とウケ数のバランスも重要。

・自虐ネタは微妙。モテない、売れない、ハゲなどの話はひな壇のエピソードトークとしてはいいかもしれないが、ネタとしては「他の人がやっても面白い」くらいに磨き上げた方が良い。落語は同じネタを何人もの人が演じるが、それはネタが磨かれているからである。特に、小さなライブなどでは身内受け的に自虐ネタが受けてしまうので、癖にならないようにすべきである。

M-1は制限時間が短い100M 走のような短距離競技なので、スタートからトップスピードに持っていくまで笑いを加速させていく作りにしないと優勝できない。漫才師も短距離・中距離・長距離向けのコンビがそれぞれいるので、M-1にこだわりすぎるのは良くない。

・漫才の舞台上で余計な設定の説明をすべきでない。冒頭で「おかしい人」と紹介するとつかみで笑いは起きるかもしれないが、おかしい人かどうかは見ればわかるからだ。

・「漫才は三角形が理想」。ボケとツッコミと観客が向き合う形。

・芸人という職業は選んだというより、芸人としてしか生きる術がなかった。

・コントは芝居なので、アクシデントに弱い。客の携帯が鳴りだしても、反応してしまったら世界が壊れてしまう。漫才だったら、日常会話の延長として「お迎えきちゃった?」みたいに自然に触れることが出来る。

・関西弁に限らず、方言は感情を乗せるのに適している。東京の日常言葉は「意味」を伝えるだけのようになってしまっているが「とても好きだ」というより「めっちゃ好きやねん」の方が遥かに気持ちが伝わる。

・「コントは動きも使って笑いを取れる」と言われるが、そのような定義も変わりつつある。

三四郎の小宮は「あなた、ここ笑うところですよ!」とすぐ客をいじってしまうが、良くない。「客をいらう」といって、本当の芸がつかないからだ。

・芸人は芸歴を重ねるにつれて、客よりもこちらが上なんだという錯覚に陥ってしまうことがある。「俺の作品を見せてやるよ」みたいな。

・ハライチ岩井は、M-1に出ることを古典落語のコンクールで新作落語を発表しているようなものと形容した。

・R-1は、ピン芸人というくくりだけで雑なので、何を競う大会なのか分かり辛くなってしまっている。フリートークもあり、コントもあり、ギャグもありという状況は世紀の凡戦と言われた「アリ対猪木」のような状況に近い。同じく、性別で分けたW-1も意味が薄い。

・番組は本当にサッカーに似ている。司会がFWの場合、ボケの人はFWを降りていいパスを供給できないと成立しない。