midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

カポーティ」を見る。

トルーマン・カポーティが「冷血」の題材となる事件が起きてから犯人との交流・取材を通して作品を書き上げるまでの執筆の苦悩を描くという映画。ちょっと前に見た「ハンナ・アーレント」とすごく似た構造になっていると思う。ある日新聞を通じてある事件を知り、事件の裁判を傍聴し、センセーショナルな作品を上梓するまでの苦悩や周囲の反発を含めた一連の流れを映画化したというもの。本作は、今年初めに亡くなったフィリップ・シーモア・ホフマンの独壇場と言っても過言ではない。彼以外の俳優ではこの映画は成立しないし、強烈な存在感がスクリーン全体に焼き付いている。一言でいえば不気味。かなり明るいブロンドと童顔短躯、異様な高い声と、胡散臭い道化のような話し方。カポーティ自身のキャラクターがどういうものか知らなかったが、アカデミー賞主演男優賞を取ったのが納得の仕事ぶりだ。どうもカポーティは華やかな社交場で人気者だったらしく、ゲイであることを公言し、ゴシップにまみれた作家だったらしい。

観終わってから読んだけど、映画のキャッチコピーがすごく的確。「何よりも君の死を恐れ、誰よりも君の死を望む」。創作のために一家惨殺事件の犯人と交流し、互いの似た境遇を慰めあい、共感しあう。その一方で、まさしく創作のため、事件の顛末を描くため、犯人には死という形でフィナーレを飾って欲しいと願望する。友人を装って犯人に優秀な弁護士をつけておきながら、彼らのことを描いた作品のタイトルに「冷血」とつける主人公と、それを咎める犯人。「取材のために嘘をついてるのか?」と。「いや、タイトルは出版社が仮に勝手につけたんだ。センセーショナルにするために」と言い訳する主人公は、確かに「冷血」な人間だ。アンビヴァレントな感情に苛まれながら、犯人の最後を見届け、作品を書き上げた。社会学の研究にもあったけど、フィールドワークの難しさとも通じる。観察者は、純粋な意味で観察者でいることはかなわず、必ず対象との交流を伴い、対象者に対して一定の影響を与える。対象者の深い情報を知りたいのなら尚のこと観察者は対象者に近づかなければならず、その頃には観察者と対象者の垣根は低くなり、観察者は当事者に近くなっていく。そのことで他の観察者からは非難を受けるし、観察者自身が距離の取り方に苦悩する。カポーティは精神を苛んだ挙句どうにか作品「冷血」を世に産み落とすことが出来たが、その後は一冊も書き上げることができずに失意のうちに死んだらしい。

現実を見失った観察者という意味では映画「凶悪」の主人公にも通じるかもしれない。本作はそういった「観察・咀嚼してものを作る創作者」にとっての苦悩というものを描いた良作だと思う。