midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

「暇と退屈の倫理学」を読む。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

最近宇野常寛との絡みで興味のあった國分功一郎の著書。かなり平易な言葉で、読者ひとりひとりに語りかけるように、こうは思わないか、と共感を求めるように暇と退屈についての思考を進めていく。

印象に残ったフレーズ。

「文化産業が、既製の楽しみ、産業に都合の良い楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。~なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えば良いのかわからない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。」

「自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な氏名に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見当たらない。だから、大義のためなら、命をささげることすら惜しまない者たちがうらやましい。」

「狩りやかけは気晴らしである。そして、「君は、自分がもとめているものを手に入れたとしても幸福にはならないよ」などと訳知り顔で人に指摘して回るのも同じく気晴らしなのだ。」

パスカルにとっては、気晴らしとは神への信仰なのだという。どうにもならない暇と退屈から脱却するためには神を信じるしかない。しかし、自分はこれに「熱中」出来ない。信仰は思考を止めた人間の行いだと思っている。よって気晴らしにならない。そして、パスカルからしたら他の気晴らしに熱中するものは「苦しみをもとめる人間」にほかならないという。若者が退屈しているのなら、戦争でも起こせばいい、となる。

「退屈している人間がもとめているのはは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。」興奮できるのであれば苦しさも厭わない。

ラッセルによれば、幸福に到達するためには熱意がいるという。

スヴェンソンによれば、退屈が人々の悩みになったのはロマン主義のせいであるという。前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、それを与えてくれたということだ。それは儀式やしれんであったり、宗教であった。しかし近代以降、生の意味は共同体的なものから、個人的なものになった。テンニースによれば、この地縁、血縁によって自然発生する社会はゲマインシャフト(共同社会)、契約的な関係にもとづく社会、人為的な社会をゲゼルシャフト(利益社会)という。

また、歴史を紐解くと遊牧民は新しい環境に適応しようとするなかで、「人の持つ優れた探索能力は強く活性化され、十分に働くことができる。新鮮な感覚によって集められた情報は、巨大な大脳の無数の神経細胞を激しく駆け巡っていただろう」が、定住者がいつも観る変わらぬ風風景は感覚を刺激する力を失わせる。よって、「行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に過度な負荷をもたらす別の場面をもとめなければならくなり」文化や政治経済システム、宗教体型を発展させていったのではないかという。狩猟採集民はモノを持たずとも少しも困窮していない。むしろそれゆえに自由である。「極めて限られた物的所有物のおかげで、彼らは日々の必需品に関する心配からまったく免れてり、生活を享受しているのである。」彼らが食料調達のために働くのは、大体1日3時間から4時間だという。


「浪費はどこかでストップするのだった。モノの受け取りには限界があるから。しかし消費はそうではない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。」

「余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。」

これなんかは痺れる一文である。自分を含め、現代のfacebookにアップロードする人間の心理を的確についている。「余暇は資本の外部ではない。~レジャー産業の役割とは、何をしたらよいかわからない人たちに「したいこと」を与えることだ。レジャー産業は人々の要求や欲望に答えるのではない。人々の欲望そのものを創りだす。」

疎外について、ルソーはこうまとめている。「自然状態において人間たちは善良に暮らしている。人間に不幸をもたしたのは文明社会であり、文明社会こそが人間に疎外をもたらしたのだと」いう。自然人は、邪悪なことができないし、する必要がない。そして、「もはや存在せず、おそらくは少しも存在したことのない、多分将来も決して存在しないような状態」であるという。

退屈においては時間がのろい。時間がぐずついている。退屈する私たちは、このぐずつく時間によって困らされているのだ。

十八分の一秒とは、それ以上分割できない最小の時間の器である。人間にとっては十八分の一秒のあいだに起こる出来事は存在しない。映像を見るときにスクリーンの暗転にそれ以上の時間がかかると画面がちらつくという。これは視覚だけでなく、聴覚などあらゆる感覚についても言われる。

盲導犬は盲人がぶつかるかもしれない障害物を迂回しなければならない。しかもその障害物は犬にとっては少しも障害でない場合がある。~一匹の犬を盲導犬にするためには、その犬がもともと有していた環世界では気に求めなかったものに、わざわざ気を配るように訓練しなければならない。これが大変難しい」のだという。人間は、この環世界を比較的変容できる生き物であるという。

人間は普段、第二形式がもたらす安定と均衡の中に生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無感覚となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷となることで安寧を得る。「世界には思考を強いるものや出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。(人間であること)を楽しむことで、(動物になること)を待ち構えることができるようになる。これが「暇と退屈の倫理学」の結論だ。」