midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

今日はカミーユピサロ展に行ってきた。

大丸まで時間ぎりぎりにいったけど、思ったよりあっさりと出てしまった。ちょっと予想してたけど、それほど楽しくなかったのだ。何か逆に俺がぐっと来ないポイントが少し掴めた気がした。

ピサロ家の人々は皆暖かい家族なんじゃないだろうか。作品=作者の性格っていうのは違うと思うけど、ピサロの描く風景はピサロの身の回りの牧歌的な農村や庭をピサロ自身のフィルターを通して再構築した画面なのだから、ピサロの思考や観察の跡がちゃんと作品から読み取れるとは思う。そして、それがなんと言うか弱い。対象に対する緊張感がない(息子のリュシアンに宛てた手紙にはよく観察しものの本質を見よ、とアドバイスしてるんだが)。まなざしが暖かい。音楽で言えばゆるーくて感じのいいアコースティックギターを爪弾いてるような感覚だろうか。目を引くような構図もないし、トリッキーな色使いも特にない。そういうわざとらしさも嫌いなのかな。描く対象に降る光をさーっと追いながら、スケッチするような荒めの筆致で画面に絵の具を厚く塗りこんでいく姿が思い浮かぶ。前に見たハンマースホイの冷徹な目とは大違いだ。

決して嫌いではないし綺麗だなーと思う絵もあったんだけど、それほど「面白く」なかった。そういった意味で結構収穫があったと思う。

芸術立国論 (集英社新書)

芸術立国論 (集英社新書)

前から気になってた平田オリザを始めて読む。結構面白かった。

なんというか、現場の人の声なのだ。本人も書いてる通り、きちんとしたアートマネジメントを学びたい人は専門書がいくらでもあってそっちを読むほうがいいんだろう(論文的なまとまりのある構成ではないし、「図書館の司書は五人くらいいるんだろうか」なんて調べりゃすぐ分かるようなことも確認せず書いちゃってる)けど、俺はこの人の学術用語を使わず実体験に負いながら自分の「創造する環境」を少しでも良くするために声を上げている、という点が共感を持てた。

ただ、ひとつ言うと、やっぱり芸術は社会のシステムにそぐわないところに生じてる部分があるとは思う。助成金なんて絶対もらえない反社会的な芸術だったり、自分の机の上だけで展開され見せる気のない絵や詩とか、逆に芸術がしにくい土壌だからこそ生まれるものとか。それは既存のシステムに揺さぶりをかけるという面もあるかもしれないが、そもそも自分の芸術がどのように受容されるかマーケティングが出来ない感性が作る芸術だからこそパワーを持ってたりするんじゃないかなーと思うんだよね。まあちょっと難しいけど継続的に考えてみたいテーマではあるかな。

そして関係ないけど、ituneの曲が今日2万曲を越えてた。

CD一枚が10曲程度だと考えると2千枚になる。別に数にそれほど意味はないけど、たくさんの音楽と共に生きてきたことを改めて感じた。今後の人生も音楽を掘り続けるだろうし、今聴いてる曲ももっと聴き込んでいきたいと思う。「音楽は音楽しか表現できない」みたいなことを言った人がいるらしいが、本当にそう思う。

視覚にも聴覚にも嗅覚にも関係せず、空気の振動の構築物だけでこれだけ豊かな体験が出来るのだから、人間という生き物は不思議だね。へたくそな文でレビューなんかしたって、その面白さは伝わらない。

音楽は聴くしかない。