midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

「しくじるなよ、ルーディ」を読む。

しくじるなよ、ルーディ (ele‐king books)

しくじるなよ、ルーディ (ele‐king books)

なんというか、ちょっとがっかり。二木信がこれほど左巻きの人だって知らなかったなぁ。いや、俺だって自民党的な保守的、官僚的、事なかれ主義的な思考形式ってすごく嫌いなんだけど、問題なのは本書が音楽評論の要素が薄いこと。彼自身が本書で平岡正明にならって音楽批評を定義づけた「感動の自己分析」が出来ていなんじゃないかと思う。もちろん音楽はある社会、時代にくくりつけられるからそこから自由になることはできないけども、彼はあまりにも音楽に社会性を求めるというか、むしろ自分の反権力的な思想を音楽に押し込めようとしているように感じる。

彼は恐らく楽理がわかる人間ではないだろうし、プレイヤーでもないだろう。だから音を科学的に、論理的に分析して欲しいとは思わない。彼自身、音楽を通じて湧き出た感情を真摯に向き合い、言葉に提示することを選ぼうとしているのだろうが、結果的に音楽を「反権力」のいう型に封じ込めようとしているように見える。それこそ、彼の好きな音楽にまつわる言葉で言えば、tightじゃないしcoolでもない。ダサい。

彼はサウンドデモについてこう言う。「日本においては、まず権力や資本によってずさんなエディットを施された僕らの身体感覚、神経にダイレクトな刺激を与えてリミックスし直し、そこから矛先を敵へと向けていくぐらいの強度が必要だ」

URの「プログラマー」思想にも通じるんだけど、「敵」ってなによ?彼の語り口は全編を通して、この仮想敵とも言えるような存在に対する自分の感覚の優秀さを訴え、仮想敵から自分(たち)の理想郷を奪還するのだ、とアジテーションするような向きである。もちろん、あるべき社会の形を求めるのは民主主義の市民として義務に近いと思うし、素晴らしいと思う。ただ、彼は常に仮想敵に迫害されたマイノリティとしての自分、という立場から思考する。常に被害者意識。被害者の言うことはただしい。そこで思考停止。彼自身が加害者になり、マジョリティとなり、人を抑圧しているかもしれないという意識はない。

サウンドデモは、「権力と資本に骨の髄までむしゃぶりつかれて非-政治化させられたカラカラの身体を、音の洪水の中でシェイクする身体再生装置」らしい。彼とその仲間にとってはそうだろう。俺だってその感覚はわからなくもない。でも、誰もがシェイクされるわけはないし、むしろ大半の人は右翼の街宣車と同じく「うるせぇな、そんな不毛なことやってないで日本を変えたいならもっとマシな活動しろよ」と思っていることだろう。嫌なものを押し付けられる感じ、「マイノリティである」彼なら身にしみてわかると思うんだが。

さらに、彼の「同志」である松本哉という人物が韓国から入国拒否されたニュースに対し、こう記す。「自由と熱狂を求める人々の大衆的祝祭やお祭り騒ぎや反抗的な企みが、隣国の国家さえ本気にさせる潜在力があることを照明してしまったのである」アホかと。迷惑行為を取り締まってるだけでしょ。それをさも自分たちの活動が身を結んだとでも言いたげなこの書きぶりは失礼ながら失笑を禁じえないレベルだ。

彼はインタビューするアーティストからも、政治的なメッセージを抽出しようとやっきである。例えばkiller bongからこんなこと言われてる。「もっと面白いこと訊いてよ。そんな政治的な雰囲気を漂わせないでくれよ。」直後に彼は「そんな話は今日はほとんどしてないじゃないですか!」という通り、確かにこのインタビュー自体はそれほど彼の思考をアーティストに押し付けるようなことはしていないが、killer bongからするとやはりそういう印象を持たれている。返す言葉がこれだ。「俺を反逆児に仕立てあげようとしないでくれよ。」

「マイノリティは常にセクシーである。」と彼は言う。これは「black is beautiful」のスローガンと同じく、ただの逆差別にすぎない。セクシーかどうかはマイノリティであるかと関連しない。

多分、彼の著作はもう読まないだろう。