midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

ゼロ・グラビティ」を観る。

これはもう反則だわ。お手上げ。映画というエンターテイメントが、観客をなるべく遠くの創造した世界に飛ばして帰ってこさせるものだとしたら、その飛距離がすごすぎる。映画を観終わって、池袋シネマサンシャインを出てからしばらく現実感がなかった。正確に言うと、足元がおぼつかない、地球にいる気がしなかった。こんな映像体験は初。前もっての情報は「宇宙での作業中にアクシデントが起こる」っていうストーリーと、色んな人が絶賛していて、かつ「映画館で観るべき」という声が多かったことだ。確かに映画館で観るべき。「2001年宇宙の旅」に匹敵、もしくは描写能力だけで言ったら上を行ってるんじゃないかと思う。キューブリックが本作を観たらどう思うかなぁ。以下、ネタバレ注意。

どうやって撮影してるのかとかはこれを書いてる今もわからない。360どこにも足場がなく、固定されることなく縦横無尽に動き回るカメラが、サンドラ・ブロックの悲壮感溢れる表情とジョージ・クルーニーのキビキビした動きと共に、彗星のように降り注ぐスペースデブリの破片と爆発する宇宙船を余すことなく捉えていく。もう、宇宙で実際にロケやってきたんですか?としか思えないような映像だ。実際の宇宙飛行士も、本作が実際の宇宙船での作業に近いと言ってるらしい。

中でもすごいのは、母船(?)が破壊されて二人でISS(国際宇宙ステーション、というらしい)についてからの一幕。降り注ぐ破片が3Dで観客の顔の前まで迫ってきて、思わず手で振り払ってしまいたくなるほどの臨場感。また、カメラの視点が時折サンドラ・ブロックのヘルメットごしになるんだが、荒い息遣いと共に少し曇ったガラス越しに展開される恐ろしくて美しい宇宙の情景は、自分がその場にいるかと錯覚させる力がある。徹底してリアリティを重視した演出で描かれており、映画というより生中継を見ているような気分にさせられる。というのも、二人が吹き飛ばされ、絡まったロープに何とか繋がって命拾いしたところでジョージクルーニーが二人を繋いでいたロープを外すところも、「仰々しい音楽」が鳴らないのだ。「アルマゲドン」で言えば、ベンアフレックが目に涙を浮かべ、ブルース・ウィリスが「娘を頼むぞ」と言ってスティーブンタイラーが歌いだすシーンである(いや、このシーン結構好きなんだけどね)。本作にはそういう湿っぽいシーンやけばけばしい音楽はかからない。「宇宙は静かでいいだろう」と語るジョージ・クルー二ーがかけてる気の抜けた感じのカントリーっぽいラジオの曲と、後は通信する声と息遣いが鳴るのみ。そう、宇宙には空気がないから音を伝えられないのだ。本作はこういった映画的な文法を排して描かれていて、それがまた俺の好みにドンピシャ。もう一つ例を上げると、回想シーンや地球上の人々のシーンが出てこないこと。本作では、時間を切り離して並べていく演出なんてない。90分という上映時間が、そのまま事故から地球に生還するまでの時間と間違うくらい緊張感のある時間をそのまま抉るように描き出している。主人公のサンドラ・ブロックは幼い娘を無くしていた過去を持つが、その娘とのシーンや、地球から本事故についてどう対処しているかを描くような野暮な真似はしない。徹頭徹尾、宇宙空間で起こった事故をひとりの男とひとりの女のやりとりだけで描いているのだ。この純度の高さに痺れる。この二人がチャチな恋愛関係にもならず、片方があっさりとフェードアウトしてしまうのもリアル。作品の中で、徐々にサンドラ・ブロックの人となりが見えてくるような作りにせず、徹底して説明的なセリフを排している。結局、アメリカのイリノイ州(だったかな?)の病院で勤務していて、車を運転しながら喋りの入らないラジオを聴くのが好きで、娘を無くした経験があり、恐らく無宗教である女性ということしか説明はないのだ。どんな経緯でこの計画に参加したのか、宇宙に対する思いとかもわからない。死と隣り合わせの極限の状態で、そんな悠長なことを説明してたら緊迫感もなくなる。このリアルな描写だからこそ、ラストシーン、サンドラ・ブロックが岸に着いた時の安堵と歓喜の入り混じった表情が輝くのだ。