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愛国者は信用できるか」を読む。

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

著者の鈴木邦男氏は、大学入りたてくらいの時に一時熱狂的にはまった、よしりんの「ゴーマニズム宣言」で知った。その後、サブカル文化人みたいなポジションの仕事やってるんだなーとか思ってたけど、この度初めて著書を読んでみた。面白い、んだけど、ちょっと文章が稚拙…。というかこれ、テーマを決めてからそれについて話した内容をテープ起こししてるような作りなのかなぁ。話がいったり来たりするし、「そういえばこんなことを思い出したが」みたいな挿入が多くてすぐ脇道にそれるし、もうちょっと体裁を整えて、言いたいことを絞ればいいのにと思った。それに、個人的な記憶に基づく体験談とか聴いた話の紹介が多く、客観的な資料に基づく分析や愛国の方法論についての言及が少ないのも気になった。まぁ、学者じゃなくていち闘士なんだと考えれば自然なのかもしれないけどね…。国家斉唱の是非とか時事的なテーマについても触れてるんだから、最近のネトウヨとか右傾化する人間が「なぜそちらに惹かれるか」についてもっと分析して見て欲しいなーとも思う。

大まかな内容としては、愛国心の持ち主の行方の話や、愛国と憂国の違いや、天皇制に関わる問題(女系天皇の是非とか)について語り下ろすというもの。

まず、愛国心の持ち主については、単純比較は難しいかもしれないが、結構趣味の世界にも近い気がして、共感できるところが多かった。著者にとっての「国家」は、俺の周囲の言葉に当てはめると「音楽」になる。別にそれによって左翼学生を襲撃するようなかたちで反対派を弾圧したりすることはないが、誰もが、「俺の方がセンスいいorイケてる音楽知ってるぜ」という自負は少なからず持ってると思う。国家に対する愛の深さなんて統一した基準はないのに、と著者が語るように、音楽に対する愛にも統一された基準なんてないから、誰が一番イケてるかなんて測りっこないんだけど(そもそも測る必要なんてないが)、それぞれの日々の行動やアウトプットから何とか自分の尺度で人を測り、イケてるやつとイケてないやつを選別してる気がする。要するに、ハマったのが「国家」か「音楽」かという違いだけのように見えた。

また、愛国と憂国の違いも面白かった。著者によれば「愛国は現状維持的で、憂国は変革的だ。憂国は、このままの日本でいいのかと、破壊的、否定的な情念になる。「反日」と変わらない所までゆく」という。確かに、そういう意味では日本を変革しようとした左翼学生は憂国の徒だし、著者の意識とも近い。なかなか変わらない日本に業を煮やし、自己改革と内ゲバを繰り返して悲惨な活動となってしまった例は多いが、福島瑞穂も自身のことを「愛国者」だと言う。

あと、怖いなーと思ったのが、「我々が守るのは今ある「存在(ザイン)」としての天皇ではなく、「理念(ゾルレン)」のための天皇」という考え方。「理念」のためなら「存在」の天皇は殺しても良いのだという。女性天皇が生まれた時、彼らはそれを認めないのだろうか。熱狂的なAKBやアイドルの信者たちによる、「偶像(アイドル)」としての女性を守るために、人間としての生身の女性を踏みにじるキモヲタたちの姿と重なる。非常に身勝手で、幼稚な思考だ。こういう思考はいつの時代も変わらないのだと思う。

結局のところ、俺には愛国心なんてないし、郷土や場所自体に愛着はあっても、今の日本という国家にそれほど親しみを感じていない。一応本書の締めとしては「愛国心はひとりひとりの心の中にあればいい、矯正するものではない」と締めており、それ自体はごもっともなのだが、俺自信は民主主義での国家というシステムは、国民が常に動向を監視し、締め付けなければならない獣だと思っている。この獣は、隙あらば俺の自由を制限し、統制し、洗脳し、獣にとって都合のいい人間に作り変えようとしている。そういう力から逃れることはできないし、今のところその力によって保たれている秩序を信頼しているが、今現在の安倍政権は力を強めて、どんどんと俺の楽しむ場や規制を強めていると感じている。本書の著者が言及している愛国教育は、近々教育勅語の復活や、「道徳」授業の必須化などで形になっていきそうな勢いである。反吐が出そうだ。俺が愛しているのは、国家よりも自由なのだ。自分のことを自分で決め、他人に干渉されないような空間。リバタリアニズムアナーキズム。そういう場所で生きていける方が将来的には幸せなのかなぁ。