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webエンジニアのメモ

リディア・デイヴィス「話の終わり」を読む。

話の終わり

話の終わり

久しぶりに読んでいて夢中になった一冊。よく見ているブログ「空中キャンプ」でも紹介されていたこともあり、期待して読んだ。

内容というと、大学教授で翻訳や文筆業も手がける主人公(著者のリディア・デイヴィスとも重なる)が、自分より一回り年下の学生との出会いから別れ、及びその後を小説にまとめる作業を描いた作品。これだけだと薄っぺらく感じるけど、主人公の思考をそのまま書きなぐったかのような文体がすごく面白い。主人公は、辛い思い出を書く事で喪に服そうとする。そこで描かれる、失恋したものなら誰でもわかる思考のプロセスや、書く事自体に対する迷いや戸惑いをそのまま体験できる、とても面白い読書経験が得られる。

主人公は、現在から過去の失恋を徹底的に掘り起こしていくが、その記憶は誰しもそうであるように、曖昧である。

「今日はずっと数をかぞえている。喧嘩と旅行をした回数をかぞているのだ。記憶をもっときちんと整理しなければと思う。整理するのは難しい。この本を書いていて、いちばん難しいのがそのことだ。なかでも一番問題なのが整理することへの自身のなさなのだ。(略)自分が何をやっているのかわからないままそれをやったり、自分のやっていることが正解だとわからないままそれをやるのは嫌だ。」

「きちんと整理をつけたいとは思うのだが、私の頭の中はいつも混沌としている。ひとつの考えが別の考えに邪魔されたり、互いに矛盾していたりする上に、記憶は往々にして捏造され、入れ替わり、省略され、混ざり合う。」

好きだった人との特別な時間ですら、振り返るときちんと整理することは難しい。嫌な思いを他の興味のあることで消化することが多い自分だが、きちんと向き合う作業を行えば、必ずこういう思考を辿る気がする。

しかし、彼女(作中の主人公)は徹底的に思い出に向き合い、メモを取り、空っぽの心を埋めようとする。

「彼と少しでも関係のあることは(略)ひとつ残らず書き留めた。」

「どんな些細なこともひとつ残さず書き留め、夢の中で起こることで私の書き留めないことは一つとしてなかった。」

こういった、一歩間違えればストーカーとして世間に咎められるような思考、行動を逐一逃さず記していく。執念深く。

しかし、ある時からそこから解放される兆しが見えてくる。彼といた時間は死んだ、取り戻すことが出来ないということを少しずつ消化していく。

「その部屋にはかつてもっと違うものがあったというだけの理由で、私はそこに彼ととどまっていたのかもしれなかった。そこに彼が、昔と同じ彼という人間がまだいて、私もまだそこにいて、二人のあいだにはかつて何かが、折に触れて歓喜といっていいほどに燃え上がった何かがあったというのに、その歓喜が今はもう手の届かない遠くに去ってしまったとは信じられなかった。けれども今の私たちに作り出すことができるのは、既に死んでしまったものの残骸―それが生きていたことの姿を偲ばせる残骸に過ぎなかった。」

「彼が去っていってそれほど経ったわけではないのに、もうずいぶん長いこと嘆き悲しんでいる気がした。だが友人たちが私に大丈夫かと尋ねなくなったのと期を同じくして、私ももうこのことについて話す気が失せてきた。ある朝目を覚まし、またいつもの悲しみがはじまったとき、ふいに、もう十分だ、と思った。このことはもう寿命が尽きた。生まれ、生き、そして死んだのだ、そう思った。既に私は二十四時間つねに心のどこかで彼のことを考えているということはなく、日に何時間かは想像上の彼とではなく、自分一人で過ごせるようになっていた。私はそのことをまるで朗報を聞いたかのように、何か祝福するべき良い報せを聞いたように喜んだ。」

このあたりの記述は、自分の失恋体験ともモロにオーバーラップし、揺さぶられる。平野啓一郎の「分人」的な考えで言うと、好きな人と笑い、ともに過ごせた時間と共に、「その人と一緒にいる自分」もまた死んだ。だからこそ、

「彼と別れてしまっていちばん耐え難かったのは、もう二度と彼に会えない、独りになってしまったという本筋の部分よりも、もっと小さな、これから彼のいる場所に会いに行って、彼から歓迎されるという素晴らしい可能性を永遠に失ってしまったことにあったのかもしれない。もはや彼に会いに行きたいと思ってもどこにいるかわからなかったし、たとえ居場所が分かって会えたとしても、歓迎はされないだろうから。」

と思うのだ。恐らく、形は違えど全ての失恋者は似た道を歩むんじゃないだろうか。これらの感情を克明に書き留め、作品として昇華出来たリディア・デイヴィスに感服。