midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

最近リメイクされたというファニーゲームのオリジナルを見る。

ファニーゲーム [DVD]

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画面が白い部分に字幕が出ると背景とかぶって読めないというヨーロッパ映画をたまに見てて思うイライラを抑えつつ見る。暴力描写がひどいという話を聴いてたんだけどそうでもなかった。確かに「時計仕掛けのオレンジ」や「ありふれた事件」を思わせる部分はあるけど、結構違うと思う。画面が暗いシーンが多くて映像的に綺麗な描写はほとんどないし、動きのあるカットも少なく見せ場はあまりない。痛々しい声は聞こえるけどもカメラは向いてないのでそれほど心は痛まないんじゃないだろうか。俺は普段ホラーとか見ない人間だから分からないけども。

結構予想通りの物語だったけど、やはりポイントは犯人たちが映画というメディアに自覚的であるというメタ構造になっているということだろう。要するに、被害者と加害者は同じ空間にいながらも同じ現実の法則に属してないのだ。犯人はやたらと視聴者に語りかけてくるけど、被害者のほうは「今誰に話しかけたんだ?」とか聞かないし、迫真の演技で圧倒的な被害者を演じている。

犯人たちが現実離れした白い手袋に白い短パンという出で立ちをしてるのも何か暗示してるのかもしれない。そんな格好する職業ないと思うし、要するに生活感がほとんどないのだ。だから被害者のだんなが金で釣ろうとしてもなびかないし、被害者の奥さんがデブの加害者を情で落とそうとしてもなびかないし、奥さんを犯しもしない。ただ理不尽で無意味なゲームを持ちかけて、戸惑ってるさまを見て殺すだけだ。ダークナイトのジョーカーみたいな。

どうやら彼らは地域の知り合いつながりで同じ手口で殺人を続けてるようだが、やはりそれもリアルではない。「日常に介入してきた純粋な暴力」の象徴として彼らを見るより、ファニーゲームの提案者・映画製作者として違う次元で捉えたほうが的確かもしれない。だから、「物語の巻き戻し」も使えるし彼らのゲームオーバーはありえない。観客がその映像をまさに見てる時点で彼らの勝ちなのだから。

観客としてどう見るかというのもなかなか興味深い。多くの観客はおそらく被害者に感情移入し、理不尽な加害者をどうこらしめてやろうかと考えながらこの映画を見るだろう。俺も途中までは「被害者アホだな、いくらでも反撃できるじゃん」とか「理不尽な人のペースに乗っちゃいけないのに乗るからダメなんだ」とか思って見てたけど、次第にこの加害者との距離の違いに気づく。被害者との会話自体があまりに成立してないし、コミュニケーション不可能な相手であることが分かってくる。呆然としてやるせない気分になったところでジ・エンドだろうか。暴力礼賛のハリウッドを批判してるということだけど、やはりデュシャンの「泉」が持つ「カウンターしてのアート」というコンセプトが「カウンターとしての暴力映画」になっただけで、反・暴力を語ることは難しい気がする。

ハリウッドでリメイクしなおすというのはどういう意味があったんだろう?ここの意味を映画に自覚的に語らせてないならハリウッド版は何の意味もない作品になると思う。

まあでもいろいろな思考は膨らむし楽しい映画ではあった。ただの言葉遊びのレベルでなく、暴力はもともと理不尽なものだし「痛い」ものだろう。誰かを傷つけることのない社会もないし、いくら理性的な意思で社会を運営しようとしたってどこからかシステムが腐敗して暴力が出現する機会があるし、人はいつでもそれに対峙する可能性を秘めている。そこらを歩いてていきなりチンピラにからまれる可能性は常にゼロじゃないし、それを取り締まるはずの警察もひとつの暴力装置であるし、法律も強制を強いる。

確かに理屈で通じない相手とのコミュニケーションはよく考えないといけないね。自分や自分の周りの人を守るためにも。