midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

最近は全然読書が進まない。

なんというか、ほかの事に時間を割いてしまって集中した読書が出来ないんだよね。移動中はipod聴いちゃうし、更にpodcastも聴くようになってきたのでますます活字を追う時間が減ってる。

トマス・ピンチョンの『スロー・ラーナー』も途中で読むのやめちゃった。

何か、あんま面白くなかった。文章を追っていてもただ出来事をだらだら羅列していくだけで解釈がしにくい。こういう初期作品と『重力の虹』とかはあんま比較できないくらい違う作品みたいだけど、何かピンチョンの文章に対して抱いてたイメージを崩されたなぁ。何か、もっと理屈っぽい文を書くのかと思った。ケルアックの『地下街の人々』読んだとき並にざくざくした文章だった気がする。そしてケルアックの方がヒリヒリした当時のやばい状況描写と男女の荒んだすれ違いがあって面白かったな。

んで、森村進の『自由はどこまで可能か』を読む。

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

今書いてる文章とはほとんど真逆の社会思想について述べた本だが、前から興味があったので読んでみる。

うん、面白い。俺って結構社会哲学とかの分野のほうに興味があんのかなー。

前に読んでた稲葉振一郎の『「資本」論――取引する身体/取引される身体』とかも面白かったし。社会の成立過程とか運営のされ方についてそれまでの社会思想史を洗うだけでも知的発見があって楽しい。ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』とかは是非今度読みたいね。思想的に感銘を受けるわけじゃないけど、今を社会以前の白紙状態と仮定して、色々個人個人の立場での改善を加えてある程度自生的な秩序も出来れば、国家の役割を最低限にして社会を成立させるのは可能なんじゃないかと思わせる。

やっぱ今書いてる文章は結局『自分の力だけで生きるのが難しい弱者がどうやって政府のような公的な機関から人間らしい生活をするための補助を得られるか』ってことに帰結するんだろうけど、今の規制緩和の動きを強める日本の中では難しいってことは分かってる。

プラグマティックに考えてリバタリアニムズのほうが最大多数の最大幸福を達成できるんじゃないかと思ってしまった。180度の転換だけど。

そもそも市場の失敗は確かにあるだろうが政府の失敗もあると指摘を受けて恥ずかしいくらいにはっとしてしまった。大方の公共事業はムダだって言われてるし、市場化した方がはるかに効率的な運営が行われるのは確かだろう。政府を縮小すればその利権すら消失するので、かなりクリーンな政治体系が確立できる。

すべての権力は腐敗する。腐敗しない権力などないって引用があったけど、その権力自体なくしてしまえば、既得権益にぶら下がる勢力も存在し得ない。

ただ、やっぱり不安なのが、「人間は弱い」っていうプラグマティックなことだね。自分の自由権に意識的に生きている人は僅かだし、むしろ人間関係や共生の概念なんて不自由さをどう乗り越えていくかっていう点でもあるような気がする。経済的な交換相手としての他者だけでなく、愛情やら信頼やらという面でも依存しながらじゃないと人が生きていけないのも事実だし。

結婚生活とかね。妥協点を見出していく作業というか。

まあその結婚の制度自体国家に承認されるべきものじゃないって言ってるわけだけど。著者は発展途上国に住む人を例に挙げて、弱者こそリバタリアニズムを浸透させることで経済発展を遂げられるというけども、彼らの自由を尊重すれば恐らく伝統的な共同体の中で貧しさを分かち合いながら生きていく道を選んじゃうんじゃないだろうか。日本でもそうだけどちょっとゲゼルシャフト的な共同体を志向する生き方は周りからの「あいつって冷てーよな」というやっかみとかに襲われやすい。途上国の自由思想を学んで啓蒙された青年が自由を最大限に謳歌するまでのコースは険しいだろうな。

あと、怖いのは慈善事業に対する期待の大きさだろうか。障害者・女性・子供老人などの弱者は政府なんかじゃなく強者から自然と庇護されるようになるといわれてるけど、これでは完全に二流市民としてのレッテルが貼られてしまうし、それすらも開き直ってしまいそうなほど明解な思想だと思う。そして経済的な強者が財産を自分の子供や親類に全面的に委譲する自由を抑制できないので、庇護されなかった弱者を見捨てる自由も勿論容認される。うーん…

ただ、割と俺自身はこっちの小さい政府論の方が感覚的にスッキリするんだよなぁ。会社に入ったり家庭を持っても運命共同体的に生きるのもバカバカしいし、趣味に没頭する時間は確保したいし。「人と関わるの嫌なんでやることだけはやるんであんまし干渉しないでください」っていう生き方してるしな。干渉されると嬉しい反面うざさも感じてしまうし。

じゃあ何で俺は弱者の味方に今ついてるんだろう。それは俺が今現在社会的に未熟者で弱者だっていう接点が大きいけど、将来自分が強者になれた時にきちんと身銭切って今自分が志向してるような高額な所得税払いたいと思うだろうか。

好きな俳優だったポール・ニューマンは「私のような金持ちから課税しないでどうする」なんてカッコイイ台詞を残してるみたいだけど、器の小さい俺は金持ちに(万が一)なれたときに弱者の味方でいられるか分からん。制度のフリーライダーには今でもむかつくし。

理想的な税制を考えないとゴール地点が見えないけど、俺はどんな制度の社会に住みたいんだろうか。


まあそれは答えのない問いかも知れんけど、さっき見てた月光音楽団が面白かった。まぁ、ゲストの青山テルマには何の興味もないんだが。

なんというか、ほんとに飾らないガールズトークという感じだ。生島ヒロシが構成してるらしいけど、これって「筋がないけど役者に自由に即興で演技させる映画監督」の手法みたいな気がする。ゆるいけど)司会的な立場のベッキーも台本みたなの持ってなかったっぽいし。

彼女らが楽しんでトークすることがそのまま売り物になる。(見てる女の子の共感を得て数字も取れるということなんだろう。いや、いい商売だな。こういう仕事が出来る人は羨ましいけど、逆に言えば必要とされなくなったら何にも出来ないからなぁ。なかなかうまいこともないのかも知れんが。

でも、一男子としてあそこの席に加わったら何を話せるかをすごいシュミレーションして考えてしまった。結構楽しそうだとは思う。

Game Dames & Guitar Thangs

Game Dames & Guitar Thangs

最近はガンガン新しい音源を仕入れてるので聴くのが追いつかない状態だが、eddie hazelがすげーということを今更ながら知った。ジミヘンより全然好きだな。

サイケだけどファンクで、パーラメントの音作りに貢献してただけある。

そしてあんまボーカルに頼らずギターで語らせるところが好き。饒舌な音楽がどんどん嫌いになっていくな。すべての楽器が有機的に絡み合って生まれたグルーヴの中で、頭一つギターは目立って自己主張してるという曲が多いかな。

なんというか、こういう音楽が作りたいんだよなぁ。四つ打ちっていうフォーマットもいいけど、今すごい生楽器のプレーヤー集める権力と金があるならこういうモコモコくぐもった「ただのグルーヴであって、それ以外の言葉では説明できない」みたいなアルバム作ってみたい。