midnight in a perfect world

webエンジニアのメモ

「気流の鳴る音」を読む。 

 自分の中での最近の読書傾向として「他者」という概念があり、社会学的にも重要な本作を改めて読んでみる。アメリカ・メキシコ先住民のドンファンと人類学者のカスタネダの対話を軸にして、近代社会の在り方を問い直すもの。1977年刊行ということで40年以上前の本だが、今読んでも全然内容は古びておらず、目から鱗の連続でさすがに面白かった。著者はまだ30代だが、古今東西の学問に通じる碩学ぶりにも驚かされる。

動物や植物たちとの感覚の共有が阻害されたサラリーマンと、漁師が中心となった水俣病患者の関係性。

インディオの住む世界から。薬用植物の「使用法」についての情報だけをすくって持ち帰ろうとするカスタネダと、植物について知ることはその植物と生きる世界を共にすることだというドン・ファンのすれ違い。

自然を畏れる能力。合理性の質の相違。

自然を「人格化」「擬人化」するというのは、両カテゴリーを排他的に分けることが前提になるが、ドン・ファンからするとこの区分が未分化の状態の自然と交流している。だから「カラスは人間の言葉で忠告するのか?」という問いにはほとんど意味がない。

トナールとナワール。トナールは人間における、間主体的(言語的・社会的)な世界の存立機制そのものだ。言葉によって構造化された世界。

音なしで指揮者の振る舞いを観るとこっけいに見える。指揮者と同じ音世界にいる人間でなければ理解しがたい。

「ノートを取って呪術師になろうなどとは、頭で座るのと同じ位バカげているとドン・ヘナロは思っているのだ。」

ドン・ヘナロはカスタネダの文字の世界の内的なゆたかさと可能性を見ない。それを親指の運動と言った外面性に還元して眺めるだけだ。われわれ自身がドン・ヘナロに同調して、文字の世界はまずしく無意味だと考える必要はない。自分の世界を絶対化することが危険であるということだ。ドン・ファンはそれを「世界を止める」と表現する。フッサールの言う「現象学的エポケー」と近い概念だ。自明の諸前提を「カッコに入れる」とも表現する。

資本が利子を生み、土地が地代を生むという概念は自明なようで結構奇妙なことである。

「明晰」とは一つの妄信である。それは自分の現在持っている特定の説明体系(近代合理主義など)の普遍性への妄信である。耽溺である。

世界を止めるためには、「目の独裁」から全ての感覚を解き放つことが必要だ。世界を聞く。世界を味わう。世界に触れる。七人のメクラによる象の話。

「しないこと」と「すること」。視界における地の分と図柄の分を切り替えること。世界を止めるには、「すること」をやめなければいけない。

「世界を止める」ことが出来る戦士は、明晰さと超越性を身につけてしまっており、「新しい盾」を使わなければいけない。すなわち「世界を作る項目を選び抜くこと」である。これが<トナール>の自閉性からの解放と<ナワール>への飛翔である。

カスタネダは幽霊であるという。彼の魂は道の彼方「目的地」にあり、彼らは道を通っているが、その道を歩いてはいない。生そのものが意味を阻害され空虚なものとなり得る。

根を持つことと翼を持つこと。ドン・ファンは人生において「履歴を消すこと」を説くが、家系や人生の連続性を捨てられないカスタネダ。執着することがない生活は自由だが寂しいものではないか?